2018年お気に入りの曲(今年の振り返り前に)

 記録残すの大好きマンなので毎年その年に好きだった曲をTwitterに残すようにしている。そろそろその時期だ。ちなみにその年リリースされた曲、というよりは自分がよく聴いた曲。

  それをたまに振り返ろうとするとTwilog先生に頼らざるを得ない。よく考えたら気まぐれなTwitterちゃんのことだからいつ外部サービスとか使えなくなるかもしれないし、せっかくこのブログを動かしてるわけなので、過去分をここにまとめておくことにした。ツイートをのせるだけなんですけども。

   

  

 

  

 

 

 

    

  

  

  

 

   

  

 

 

   

 

  

 

 

  

  

  

  

  

 

 

 見事にメジャーアイドル、いや秋元康のオタクと言っても過言じゃないですね。それはそう。もっと正確に言えばSKEとSTUと=LOVEのオタク。

 

 この時、順位は書いてなかったけどトップ3は上で取り上げた順かな。

 

 今年はこの時よりもたくさんピックアップしたい曲が多いなぁ。よい出会いが多かった、ということで。

君が思ってるより僕はいいオタクじゃない

 元ネタはこの曲。

 

www.youtube.com

 

君が思ってるより 僕はいい人じゃない

嘘はついていないけど正直でもない

 

 さすが俺たちの康、自分みたいなオタクには刺さる。そういう意味の歌詞ではないんだけど、彼の書く歌詞はベタベタに普遍的なのでこちらが勝手に姿をくみ取れる鏡のようなものだ。

 

 アイドルオタクを8年近くやってきた。思えば遠くにきてしまったなと思うのは、あの時、「アイドルに対して求めていたものを忘れてしまった」自分と向き合う時だ。

 

 いつから「推しが推されること」を望むようになったんだろう

 いつから「推し」が自分が好きな姿でいてくれることを望むようになったんだろう

 いつから「レス」してもらうことを望むようになったんだろう

 いつから「認知」してもらうことを望むようになったんだろう

 いつから……

 

 並べていけばキリがない。気づいたら「あるがまま」を楽しむだけでは満足できなくなってしまっていた。

 初めはもっと純粋にアイドルというコンテンツを楽しんでいたはずだ。当時、仕事に追われて疲れていた自分は、趣味と仕事が直結していたため、趣味がストレス解消の行き場にならない状況になってしまった。そんな時にハマったのがAKB48グループだ。当初は、ただただキラキラした子たちが歌って踊ってる姿、バラエティや選挙などでがんばる姿、そしてそこから伝わってくるその子たちのキャラクターが面白くて楽しかった。推しメンがいなくても十分だった。いわゆるアニメやゲームなどの二次元オタクだったので、本人のキャラを活かしつつ、二次創作的に楽しむことができる「マジすか学園」もいいきっかけだった。

 気づくと推しメンができ、その子を軸にしてグループ(SKE48)を追いかけていく楽しさを知っていった。気づいたら箱推しになっていた。ひたすらそうしたものを享受するだけで楽しかったのだ。

 それもそれも最初の2年くらいまでの話だ。好きだった子がやめたり、運営の方針に違和感をもったり、知識を増やしたり、思い入れしていけばいくほど、自分の「願望」「理想」と「現実」のギャップを感じることが多くなっていた。そして、気づけば自分は最初に推していたグループを推すのをやめて、違う若いグループ(HKT48)を推すようになった。

  若いグループだったので、フレッシュで伸びしろしかないというのもあったし、また一から推すのにもちょうどよかった。この時も初めはやはり楽しかった。キャラクターを知っていくところからはじまり、そのメンバ―同士の関係性、成長していくパフォーマンス、どれを追っかけていても楽しかった。そして、気づくとまた推しメンができた。

 おしゃれでかわいくみんなから愛されるポンコツキャラのその子は見ていて愛しかったし、この時初めて生誕委員なんかもやってみた。高3だったその子が高校を卒業して、髪を染めた。それはそれで確かにかわいかったんだけれど、自分が「望む姿」ではなかったのだ。数か月の逡巡を経て、同期の違う子に推し変した。

 

 「見た目が変わったくらいで推し変するなんて本当のファンじゃない」

 

 それからはこうした自分自身に向けられたわけではない言葉を聞くのがしんどくなった。耳障りのよい、この手のアイドル側に立った言葉は、普遍的な正義のように流通している。たぶん、自分が「いいオタク」じゃないと思うようになったのはこの頃くらいからだ。

 

 そこからは何をやっていても、そうした気持ちがつきまとうようになった。

 AKB48グループにはつきものの総選挙でも自分なりにはがんばったし、生誕委員も何度かやった。握手の売上が選抜につながるということで握手券をたくさん購入したこともある。ローカルアイドルのCDをたくさん購入したこともあった。本当に好きになった子もいた。

 でも、その中でも病んで拗らせた結果、疲弊してしまい、推すメンバーやグループを変えていった。結局は自分の思い通りにならないことがストレスになってるのだ。そんなオタクが「いいオタク」なわけがない。

 

  周りには、最初のころの楽しみを忘れず、それをちゃんと続けている「いいオタク」もたくさんいる。自分の「願望」や「理想」をもっていてもバランスをとって病まず拗らせず「いいオタク」をしている人は多い。そういう人を見ていると軽い劣等感を感じる。

 

 でも同時に、そこに歪んだ自分らしさを感じてもしまうのだ。自分は「物わかりのいいオタク」「都合のいいオタク」になりたいわけではない、と。なのでこれを治すつもりがないわけだから、あまり意味のない自嘲ではある。

 

 そんなことを言っていても、アイドルの前に立つと「いいオタク」みたいな行動をとってしまうので何とも格好がつかない。別に分かりやすくモラルが低いとか粗暴だとかそういう話でもないから、推してる子から「なんでいいオタクじゃないの?」と聞かれたりもした。「髪を染めたくらいで推し変したから」みたいな話をしてお茶を濁してしまったけど、それはあくまでもそれは象徴的なエピソードにすぎない。

 

 そして、その時に冒頭の歌詞を思い浮かべたのである。

 

 この曲の主人公は、

君が信じてくれても 僕は悪い人間だ

愛が真実かなんてどうでもいいこと

君の知らない僕が この世界にいたんだ

さあ今なら間に合うよ すべてを忘れてほしい

 とその場から去ることを示唆している。

 

 でも、彼のように全てを捨て去れないあきらめきれない自分は、それでも願うことをやめられずに、現場に行きつづけるのだ。

とりとめのない雑談

 前回のエントリが多くの人に読まれたからと言って気負い過ぎないための雑談エントリ。しかし、「推し」って言葉の持つパワーを改めて感じました。射程の広さと情念の深さ、半端ない。

 

 アイドルオタクになってから基本的にTwitterライフログにしている。それ以前二次元オタだった時はmixiだったり、ブログだったり、なんならもっと遡ると個人のホームページみたいなのも作っていた。でも、これだけの長い期間、同じアカウントでつぶやき続けたのは一つの自分の歴史だし、歴史好きな自分としてはそれをさかのぼるだけで楽しめるコンテンツである。

 

 しかし、人に見られてる前提なのでたまにぼやかしすぎて自分でも何を言ってるのかわからないことが多い。特に拗らせがちになってからは(笑)ホントは日記でも書けばいいんだろうし、一時期やってたけどそれはそれでなかなか続かなかったことを考えるとそういう用途としてのTwitterは有用なんだろうなぁ。

 

 ざっくり言うと、

 

 AKB→SKE→HKT→福岡・山口ローカルアイドル→欅坂→SKE→STU→東京ライブアイドル

 

 という変遷をたどってるので、その時々のFFさんはまだ残ってるけどミュートされてるんだろうなぁ、と恐縮するばかり(苦笑)なんならリムブロしていただいてもいいんですけど、それはそれで気を遣う行為だもんね。

 

 しかし、上の流れだといま2周目で次は坂道に戻るターンなんだけど、さすがに今の坂道に戻るのはなかなかしんどそう。でも、あの時は関係性に疲れて、コンテンツのパワーに惹かれたという経緯だったのでないこともないのかな。予測すると逆に外れるパターンが多いからないか(笑)

 

 ともあれ、振り返ってみるとこのオタク、めんどくさいことに定期的に病む。そして、病む内容は大体一緒。

 

 端的に言うと「アイドルとの関係性と、アイドルの方向性」

 

 相手は人間でコントロールできないんだから、そういうのがしんどいなら、アイドルオタク向いてないし、早くやめた方がいいんじゃないかな、と客観的には思う。それでもやめられないんだから、これはもう深い業だ。

 それだけの魅力がアイドルにはあるともいえるし、自分が弱いだけかもしれない。なんてことをうだうだと考えるのも好きなのだから仕方ない。

 

 このブログは、そういうことを少し引いた目線で見てまとめるためともいえるのかな。

 

 ということで、今回はここまで。

 

 

オタクは推しを選べない

 なんか挑発的なエントリになってしまったけど、オタ活の1つの見方かなと思ってまとめてみた。

 

 「ああ、この子を推していたら幸せなんだろうなぁ」

 

 自分が推してない子について、そう思うことがたまにある。

 

 すごくファン想いだったり、楽曲がよいグループでパフォーマンスがよかったり、とてもかわいかったり、特典会で話したら楽しそうだったり、オタクが幸せそうだったりなどなど、理由は色々だ。

 

 ちなみに予防線を張っておくと、推してる子や好きな子がそうじゃないとかそういう話ではない。

 

 「そういう理由だけではすぐに推せない」という話だ。初見の時や知った序盤から「よし、この子推すぞ!」と決めて、結果的に「推す」にまで至ることはなかなか難しい、という話でもある。自分の周りを見てるとそういう印象がある。

 

 オタクが主体的にしているのは「行動の選択」だ。ライブや公演に行く、握手会や特典会に行く、など。これはその行為そのものが楽しいので、その楽しさを得るために行動してる。いわば「消費者」としての行動だ。さらに一歩進むと、SNSで交流する、グッズを買う、手紙を書く、プレゼントを贈る、生誕祭などのファン主導イベントに関わる、などが出てくる。これはその行為そのものの楽しさから一歩踏み込んで、その子だから、その子のために、その子が好きだから行動している、いわば「ファン」としての行動である。

 

 そうした行動を繰り返していくことで、自分の感情の中に「好き」や「推し」という気持ちの土壌が生まれ、気づいたら「好き」や「推し」になっているのではないだろうか。

 

 もちろん、その行動の過程どころか初見で、自分のツボにはまることももちろんあるだろう。その場合は一瞬で「好き」や「推し」に到達してしまう。それもやっぱり主体的に選択しているようで、そうではない。それこそ「縁やタイミング」みたいなものだろう。

  

 そんなこともあって、自分の意志で「好き」「推し」を変えることもまた難しかったりするのではないだろうか。オタクが「好きだけどつらい」「つらいけど推さなきゃ」みたいな感じで拗らせることがあるのはそういうのが一因だったりすると思う。

 

 ただこれは手離れがいい人もいるのでなんともだし、「好き」「推し」の定義が人それぞれだから一概にはいえないんだけど……。あと、ツボではなく地雷も存在するから、それを踏んだら一瞬ってのもある。

 

 ともあれ、そうやって到達した「推し」や「好き」は大切にしたいと、ほとんどのオタクは思ってるんじゃないだろうか。だからといって何をしても何を言ってもいいというわけではないけど(ってそれはまた別の話)。

 

 ちなみにこのエントリには対置されるものもあって、「アイドルはオタクを選べない」って話になるんだけど、そっちの方が闇は深いと思うし、色々自戒しなくてはいけないところではある。うん。 

ガチ恋の構造ー導入編

 ガチ恋というとこの方を思い出す。

 

33man.jp

 

 と思って連載を読んだら面白すぎて、自分がこの話題に触れても面白くないんじゃないかと思ったけど、ここは自分の言いたいことを言うところだったからよいのだ。

 

 そもそも、なんで「ガチ恋」をするオタクが出てくるのだろうか。

 

「モテなくて恋愛経験が少ないオタクは優しくされると勘違いして、本当に好きになってしまう」

「同年代でそこそこ自分がカッコいいと本当につき合えるチャンスがあると思って、思い入れてしまう」

 

みたいなのが定説だろうか。

 

 それではつまらない。大体こんな偏見に満ちた単純化された言説でまとめるならこんなエントリは書かない。

 

 アイドルとオタクの間で交換される価値の中に「擬似的な恋愛感情」があるというのは否定できないところだろう。そもそも日常の人間関係で「好き」という言葉が発されることはどの程度あるだろうか。本来そこまではない。恋人同士だってあまり「好き」とか言われないとかどうとかでケンカになったりすることもあったりすると聞く(そんな記憶は遥か彼方だ)。

 

 それに比べるとアイドルとオタクの間では、メディアを通じて、ステージを通して、SNSを介して、そして直接のコミュニケーションにおいて、細かいニュアンスはさておき、様々なバリエーションの「好き」という価値が双方向で大量にやりとりされている。それ自体がすでに特殊なのだ。

 

 しかし、それは「アイドルとオタクの関係における限定的なもの」という前提が共有されているからこそ成立しているし、またその「好き」の意味の中にある恋愛感情も、現実のそれとは別物だと扱われてるからこそ、許容されていると言える。

 

 また、その「好き」は自然発生するものではなく、「オタクがお金を払う」という金銭価値が起点となって発生していることも忘れてはならない。

 

 だからここで流通されてる「好き」は、ここでしか使えない仮想通貨みたいなものといえる。それはこのマーケットの中でしか使えないし、交換されない。そして、そのマーケットで流通されることで「好き」がフィードバックされて「推す」「応援しよう」という気持ちが増幅されていく。つまり「好き」の資産が増えていく。その資産はそうした感情のループでも増えていくし、さらに金銭を提供すれば増えていくので、そこにあふれている「好き」の量は極めて膨大であろう。インフレしてるといっても過言ではないかもしれない。

 

 では、その資産は現実世界に引き出すことができるのだろうか?

 

 それはできるのだ。「元気をもらえる」「仕事や勉強を乗りきる活力」「シンプルにうれしい」などなどのポジティブな感情に変換されていくという回路がある。おそらく大体のオタクはそのようにしているのだと思う。

 

 しかし、その変換ができず、その「好き」をそのまま、現実世界に還元してしまうこと、それが「ガチ恋」のスタート地点ではないだろうか。

 

 さっきも触れたように、このマーケットで流通されている「好き」の仮想通貨の量はとても膨大でインフレ気味だ。そんな早いペースで供給されていく「好き」という感情を

 「好き」→「応援する」「推す」→「好き」

 「好き」→「現実世界の活力」

 という回路だけで消化するの結構大変なことなのではないだろうか。そこで消化できないものが、そのまま現実に溢れだしてしまった結果が「ガチ恋」なのかもしれない。

 

 その供給量をコントロールしてバランスをとるとか、そもそもの構造をメタに理解して分別をつけるとか対処方法はいくらでもあるし、みんなそうやってるんだろう。

 

 でも、実際に発せられる「言葉」の力はやっぱり大きいし、そう簡単には行かないんだよなぁ、とガチ恋経験のあるおじさんは思うのだった。 

ワタシにできることはなに?

 前回のエントリと対になるこの言葉、むしろアイドルの方がそう思ってることは多いんじゃないだろうか、と気づいた。

 

 ダンスを覚えて、歌を歌って、ステージに上がるという活動をしていくだけでも大変な中で、何をすればファンになってくれるのか、ファンが喜んでくれるのか、ずっとファンでいてくれるのか、それを考えない日はないだろうし、思い悩むことも多いのだろう。マジメな子や、より上を目指そうとしている子はなおさらだ。しかも、それに明確な答えはないのだろう。所属してるグループが置かれてる状況によってもまたできることも違うだろう。ちょっと想像しただけでも大変そうだし、きっと想像もつかない大変なことがあるのだと思う。

 

 それでも僕がいるのはあくまでも「こちら側」なのだ。「そちら側」に過剰に忖度したり、ひっぱられすぎるのもよくないだろう。アイドルはみんなそれぞれに「がんばっている」のだ。その中で、有限な自分のリソースを元にどうやってオタ活をしていくのかは、自分の気持ちにちゃんと向き合う必要があるのだと思う。それが基本的に不誠実なありようになりがちなオタクという生き物の中で、逆説的に誠実ということなのではないだろうか。

 

 それでも、もし好きな子がそういうことで悩んでたら、結局、また前エントリのような話に行きついてしまうのだ。果たしてオタクにできることとは……。具体的な問題点と思えることを指摘するのは正しいことなのか。そんな一方的にしか見えない視点から?

 

 そこまで深く考えなくていいことなのかもしれないし、でももし、もう十分がんばってると思える好きな子にこう聞かれたらあなたはどうしますか?

 

 「ワタシにできることはなに?」 

ボクにできることはなに?

 8年くらいアイドルオタクをやってるけど、

 

 「オタクにできることは……」

 

 と思うことが多い。あ、「オタクは黙って積んでればいいんだよ」って人は回れ右推奨です。そういう人は「いいオタク」なので好きにすればいいです。あと、お前は本当にそれだけ積んでるのか?(積んでる人は本当に積んでるからあまりケンカを売らないように)

 

 DDも単推しもガチ恋も一通り経験してアイドル人生3周くらいはしてる気分だけど、そういう達観に至らない自分はまだ徳を積むのが足りないのかもしれない。

 

 もちろん、実際は「できること」なんて山ほどある。CDを買えばいい。ライブを見に行けばいい。物販に行けばいい。遠征をすればいい。プレゼントをすればいい。手紙を書けばいい。生誕の手伝いをすればいい。なんならそれを仕切ってもいい。

 

 僕自身、そうしてきたし、そうしてる。それを否定したいわけでもない。

 

 でも、彼女たちが本当につらそうな時にしてあげられることはないんだよなぁ、とよく思う。それは僕らの役割じゃないんだろう。それは分かってる。彼女たちの周りの大人や友人がしてあげればいいことだ。オタクはそれを踏み越えることはできないのだ。

 

 アイドルが偶像的な「メディアアイドル」ってあった時代はそれでもよかったのかもしれない。でも今のアイドルは人間的な「ライブアイドル」だ。アイドルとオタクの間には「関係性」が存在するのだ。

 

 できることはたくさんあるけど、本当に大切なことはしてあげられない「関係性」。それはどこかいびつなのではないだろうか。

 

 いやそうではない。とある子がこう言っていた。

 

 「家族と私にもつくれない、友達と私にもつくれない、メンバーと私にもつくれない、私と貴方との関係です。ゆっくり大事にしていこうね」

 

 そういうことなんだろうなぁと思う。そして、やっぱりそこに正解はなくて、そのアイドルとオタクがそれぞれの関係性を作っていくしかないのだ。

 

 それでも「できること」を積み重ねていくとそこに澱みが生まれてくる。欲と言ってもいい。みんなそれをどうやって乗り越えているんだろうか。

 

 結局、それを乗り越えられない自分は、答えの出ない、問いかけることのできない同じ言葉を繰り返すしかない。

 

 「ボクにできることはなに?」

 

 と。